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中央アフリカ滞在記:『シャンテ・チンビ!』 ⑮
8月20日(月)05:28


青空は絵の具でいうセルリアンブルーに近く

晴れ渡った朝、停電状態にもすっかり慣れた。


コボンゴにある栄養失調児センターに行く。


添加物だらけの食品で丸々と太った

『どこぞの島国』の子供とは真逆な

小さな生命…

痩せた身体 泣き声は大きく 

栄養が必要な

未来へのいのち。



食料、医療、嗜好品に至るまで輸入に頼らざるを得ない

センターは常時開いている訳じゃないが~

砂漠の井戸に違いないのだ。

それはまるで、枝を切ると水が滴り、旅人の飢えと乾きを

潤す『旅人の木』
の様


ひとりでも多くの飢えを救わんとせん!


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街のど真ん中から放射状に拡がる バンギの姿

Google earth で見てみたらよくわかる

赤い大地のシャンゼリゼ通りや凱旋門

なるほど フランスの中心部のつくりと酷似してる

フランス統治下の名残りの中心部をギターを抱えて歩く

マルボロを買おうとするが、高くて序でに禁煙(380円)

物珍しさに笑顔で話しかけて来る人々に

ニューヨークやロサンゼルスのスラムを

歩く時みたいな悪感は無かった~


しかし、外国人が町並や施設などを見学する際は

必ず情報省に許可証を発行して貰い、役人さん同行でなければ

ダメだという、ルールには違和感が残った。

ムンジュ…命の保証は無いからね…


自由とは危険を受け入れるコト?


ホテルウバンギのロビーから川へ出れるテラスを抜ける

パティオに物憂げな 若い売春婦が

タランティーノの映画に出てきそうな

女優の佇まいで コーラをちびちびと飲んでた

声)生きる為だろね そう、生きる為に身体を売る


ウバンギ川の畔に着き

向こう岸にザイールが見える

ギターを取り出して『Swansong』を歌う

晴れ晴れした風が吹き付け 髪をなびかせる

川で漁をしている3艘の丸太船

codaのwoowoo♪wowow♪を

船の上から叫び返してしてくれる

長い竿をギター見たいに弾く真似をして

俺の歌に合わせて唄ってくれてる

船の上でお互いに拍手喝采(嬉)


ウバンギ川(川中の浮島の崖の上での)LIVE!!!

ザイール迄 届け!

この川を渡る。というイメージは

中央アフリカがAIDSを克服し

病む岸辺を渡りきる イメージ。


そう成る日が遠くても

俺は、その為にも、歌い続けたいと

誓った。


空は どこまでも どこまでも  青かった


⑯ いよいよ新曲完成の夜へと続くけんっ







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2007/09/27(Thu) | 日記 | トラックバック(-) | コメント(3) | page top↑
中央アフリカ滞在記:『シャンテ・チンビ』 ⑭
8月19日(日)05:13

霞みがかった 初秋のような 朝

とても静かな朝

ベランダからの赤茶けた、そして深い緑に包まれてる町並を見る

どの国も穏やかという訳には行かないだろうが

教会からの鐘の音に そうあって欲しいなと考える

煙草のけむりが朝靄に紛れて行く…

ココシャネルは 孤児で、教会で育ったから

彼女のデザインするものは、黒がベースに成ってるって話しを 

ふと思い出した。


さて、今日は現地事務所の中で秘書をしてる

ジーナの家に「現地食」を体験しに行く日

注)ジーナは物凄くお洒落で尚且つ、優しい30代のママさんだ


住宅地?というと どんな場所を想像するだろうか?

ビートルズの映画で見た2階建ての煉瓦とモルタルの家並み?

芝生にビュイックが停めてあり~少年が新聞を投げ込んでる様な家?


ノン ノン


露店の疎らな通りを奥に入ると

トタンや土壁で出来た家並みが、デコボコした土地の上に

キャンプ地のロッジのような間隔で 家々は建ててある

貧しい。とはいえ 俺が見たところ

狭いながらも楽しい我が家的な風情もあり

トランジスタラジオからアフリカンポップが流れてて

ご近所を訪れた気分になる(馴染っ)。


厚みのあるトタンに囲まれたジーナの家

庭に入ると高床式に家は建ててあり

リビングには椅子もテーブルも蛍光灯もあるから

旦那さんと共稼ぎのジーナの暮らしぶりは中の上?

なのかも知れない

ジーナは白地に赤と緑の生地の現地風ドレスを纏い

かまど(ブロックで囲んである簡素なもの)の前で

マニョックとグンジャ(マニョックの葉のソテー)の

仕込みに取り掛かってた。

噂を聞きつけた近所の子供達が庭に入り込み、いつものように

歌ったり、踊ったり(どの子もリズムめちゃ良くて呆気に取られる)

「ボブ日本カエルノ?」「マダダヨ」とか

話し、共同水道に水を汲みに行ったりしていると

現地ボスのオノラから厚生大臣に会うことになった!と

連絡が入ったので「俺、そんな偉い人に会ってよかとかな?」

と思いつつも~普通に堂々として居ればよし。と肩から力を抜いた

声)上とか下とかナカばい!当って砕けろたい!


中央アフリカの厚生省は

大正時代の区役所みたいな趣きがあり

古い木とコンクリートの香りがした。

護衛にも、秘書官にも、殆ど顔パス状態~

オノラは何処に行き、何をしていても

COOL&SMARTだ

徳永さんが全信頼をおいているのも頷ける。


大臣室は重厚なサロンといった感じの部屋

待つこと5分で、一目見て”偉い人”と解る

厚生大臣との会談は始まった。

アフリカ友の会のHIVとAIDS拡大防止の行いに対して

謝辞を述べられ、国としても出来るだけのこと?をやる~と

しみじみ語られていた。

俺は「日本から病の気!に対して歌いに来ました、音楽を通して

   啓発と感染予防の意味を込めて、ウタッテイマス」と言うと

  「それは素晴らしい!親しみやすく踊れる!曲を是非」

  と、片目でウィンクして握手を求めて来なはった。。。。


徳永さんは今後の活動のことや、現状の問題などを熱く語られてた。

大臣を前に微動だにしない やっぱスゲェ人だ!


中アの厚生大臣とはいえ、最良の具体策を模索中とのことで

民間の小さなグループで草の根「感染防止の啓発」も大事だし

無論レトロウィルスも必要なのだが…俺は現地の奥に入れば入るほど

『仕事を持って自立した暮らしが出来るようになること!』

それが叶えば、そこから立ち直れるように感じたのだった。


ジーナの家に戻り

マッシュ状のマニョックと

干魚をあえてあるグンジャを食べさせて貰うと

思いのほか美味しく、又腹持ちがドカッ!と良いので

1日是1食の意味も十二分に解った


豊かさ?って何だろな? の疑問に対して



今日を生きれて元気なこと!と

明日も元気で生きれること!と


食事の後、理屈抜きに明るい子供たちと

庭で銀輪を棒で転がし~ワイワイ遊びながら

俺は 強く思ったのだった。。。



⑮ウバンギ川の畔へ に続く


























2007/09/25(Tue) | 日記 | トラックバック(-) | コメント(979) | page top↑
中央アフリカ滞在記:『シャンテ・チンビ!』 ⑬
8月18日(土)06:13

曇りの空に 綿菓子みたいな雲

部屋に干してたボヘミア風シャツが

乾いててうれしい。


アラブの市場の真ん中にある小学校へ行く

イスラム教徒の小学校である


煉瓦の塀で囲まれた校内の木陰…

少しだけ穏やかな気持ちにさせる。


青空教室!黒板(緑色だが)を短い棒で

ペシペシと叩きながら厳しそうな先生が

言葉を読み上げ、大勢の子供たちが後に続く。


モルタルの教室の中でも同様に授業は行われてる

珍しそうに俺を振り返り、子供達がざわついてると

黒板をペシ!ペシ! そして怒鳴る

先生邪魔するつもりはないよ~

なんだか自分が叱られてる気分になった。


モスクのある隣の学校へ移動する

何らかの宗教の教えと教育がリンクすることは

子供を正しく導く為の、理にかなってる様に思えた。


低学年の教室を覗いてみると

落ち着きなくキョロキョロしてる

バカリーが居た

青洟(あおばな)垂れて大きな目で

先生の話を聞いてるか、と思えば

友達とじゃれあったり、かと思えば

外を眺めたり~昔の自分を見る様だ(笑)

すると

先生の鉾先が、ウロウロしてる違う生徒に向く

ツカツカと歩いて行き、ムチで太ももをベシッ!

うわ~痛そー でも そうやって憶えるのかもな

大切なことも そうじゃないことも。。。


30%が読み書き出来ないといわれるこの国で

教育があることは、とても貴重なのだ

教育により情操と学力を身につければ

仕事に就き自立出来るだろうし

自立出来れば、病に対しての治療も出来るし

薬を買うことも出来る。


日本のように複雑ではない分、教育の意味が

明確に感じ取れたし

先生の厳しさだって、躾と考えれば当然の様。


この国の、子供達の社会の中では

1対1の掴み合いの喧嘩以外

陰険なイジメなど皆無であった

兄弟が加勢することはあっても

1人をよってたかって…など

それが、当然であるが如く! 無かった!


午後に宿舎に戻り、ボーイさんのアルフォンスが

腕を振るって作ってくれたグリンピースのソテーと

イワシのフライを目の前に食欲がなく…

ゆかり(しそのふりかけ。ね)と醤油をかけて

パラパラ米のみを、食べさせて貰った。

案の定、徳永さんから「ちゃんと食べないとダメよ!」

と怒られる。。。

それを見ていたアルフォンス、肩をすくめて笑ってる

ルール通りに出来ない、小学生より性質が悪い俺(笑)



バカリーが学校から帰ってくる頃を見計らって

アッシェ宅へ行った

夕方暗くなるまで、家~というか

長屋の庭に腰掛けて、近所の子供たちと遊んだ

土と緑に覆われた小さな、そして平和な場所

気づいたら、喋れないのに皆と 話しをしてる

相手の表情や身振り手振りだけで 会話していた。。。


夕暮れの焚きものの、匂い

湿気を含んだ 風と大気

バカリーもアブドライも、そしてアッシェも

HIVに感染し、いつ具合が悪くなるのか?

解らないというのに、瞳から伝わるこころにさえ

未来をあきらめてる気配すら無く

励まされるのは、ここんとこ何時も俺の方だ



暗くなり、町のざわめきに身を委ねてると

日本が祖国であることを、忘れそうで

かぶりを ふる。


遠くに来てる。という意識が薄れるのは何故だ?



励ましと友情の意味を込めた歌も

完成しつつある

俺が出来ることをしよう!

それしか 出来ないこと

それしか 今は 未だ…




厚生大臣に会いに行く⑭へ続く


















2007/09/23(Sun) | 日記 | トラックバック(-) | コメント(0) | page top↑
中央アフリカ滞在記:『シャンテ・チンビ!』 ⑫
ピグミーの村を後にして、バイキの市役所へ行った。

知事さんに挨拶と紹介される時、壁に貼られたポスターが

国を象徴していた。


ネルソンマンデラと大統領が握手する写真…



さて、滞在記を書き始め10日以上経つので

改めて心情を吐露する。

インターネットで外務省の「中央アフリカ」

検索すれば解ることだが~

渡航を控えて下さい。とか感染症の危険地域です。

とか、他の諸外国と比べると危険予測を促す表記が多い。

外貨をきっちり落して頂く為に、イメージ良く伝えることは

国益としても大切なことだが、中アについての情報は乏しい。

国の歴史については、俺も勉強中なのだが~

南アフリカや東アフリカに比べても

資源や観光を目的とした施設も極端に少なく

のほほんと訪れる様な場所でも無く

又、祖国が嫌になり逃げ込む場所でも無い、とも思える

揺ぎ無い目的が心の根幹に無ければ

アフリカでは暮らせない?

逆に起きるすべてのことを楽しめるのなら

きっと大丈夫?


歌を唄う男。という存在を、普通に受け入れて貰っている。

この国での唄う行為~向き合う人のココロの純度数

65℃以上と正直に酔えることが ありがたいのだ


そして、なによりも

人々の屈託ない笑顔に

太陽や曇り空や 雨上がりの木々の美しさに

生きるということの自然な大らかさに

強烈に惹かれてやまないのは 何故だろう?

声さえ、腹の底から鳴るように歌えるのも

何故だろう?
 と ふと考えて


サンドウィッチに入り込んだ赤蟻を取り除きながら

思考を、、、赤く乾いた土に、、紛らわした。


中央アフリカ…俺の血と同じ土の色

その血の赤は この国の人とて同じ!


上手く言えないが ね

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バイキからの道すがら、黒檀の手彫りの置物を見に行く

壁に飾ったら底知れぬ力を与えてくれる様な仮面や

幸運を与える、お腹のどーんと出た河馬(カバ)の像

像の親子の彫り物に何故か惹かれた。


それから夕陽が綺麗な時刻になる頃

賑やかな市場へ立ち寄った

マンゴ、パパイヤ、プランターバナナを始め

芋虫(マコンゴ)や干魚、椰子油etc…

護衛で付き添いの2人の兵士も家族へ土産を物色中

「おーこっちに来てみろ~」とドミニクが言うので

行って見ると。。。。。。

ギョエェ~

ハリネズミ!金色の小猿!野生の猫!サンゼンコウ!

「これー美味いんだぞー」とドミニクはハリネズミをお買い上げ

大きな金盥にとぐろを巻いてる体長1.5mのうなぎの様な魚には

ナント!足が生えていたぁぁぁあ  

進化の途中の生態系  驚異のアフリカっ。

現地の人たちには芋虫も野生動物も重要なタンパク源なのだ…


鍋のまわりに陣取って ソレ等を食べるところを想像してたら

少しクラクラして来て(小心者俺)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


車にもたれてたら

サッカーボールが転がって来た


「ムンジュー蹴ってみなよー」と


向こう側から笑い声がする


「よっしゃー大和魂舐めたらイカンばい!」


狙いを定めて ドゥンッ☆☆☆と蹴った

運良くボールは 長い弧を描いて

町民サッカー大会のグラウンドに舞い戻った

ムンジュが蹴ったゾー ムンジュが蹴ったァーと

そこらじゅうで歓声が沸き起こる

少しだけ ヒーローに成った気がした


「オーオージダンより飛んだネー」と

傍で見ていた名も知らぬ10歳位の少年

「サッカー好きとね?」

「うん!サッカー選手になって妹やお母さんを楽にしてやるんだ!」



少年は そう云ってニッコリ微笑んで

夕陽の落ちかけた

グラウンドに手を振りながら

走っていったのだった。


⑬バカリーの学校でイスラムの躾に慄く!に続く









 
2007/09/17(Mon) | 日記 | トラックバック(-) | コメント(0) | page top↑
中央アフリカ滞在記:『シャンテ・チンビ!』 ⑪
8月17日(金)06:10

溶鉱炉で白金(プラチナ)を溶かしてすぐのような朝陽が

部屋の中に光をちりばめる。

蚊取り線香は渦巻きのまま灰になり

煙草の灰は丸ちゃんとの熱論の証のようだ…

空の紙パックの赤ワインや歌詞の元文が散乱している


あぁ 昨晩は生命に対して やはり唄うのだ!と思い直し

あれから 歌詞の贅肉を削ぎ落として 寝たんだっけな~


何れにしても、中央アフリカで産まれた新曲は

日本語→フランス語→サンゴ語と逆の翻訳をせねばなるまい

と、なれば徳永さんと現地の誰かとテーブルに向き合い

3国同盟 作詞サミット(真)を開催するしかないのだ。

帰国までになんとかしよう!と計画を立てながら

インスタントのネスカフェをサッと飲んで

車に乗り込んだ。

ドライバーのベルトランにサビのメロディを素で唄ったり

担架を叩いてリズムをつけたりしてたら

診療所に着く頃には 「オイラ、もう 歌えるよ ハハー」と

親指を立てて喜んでいた。
 

さて、今日は俺の無理なお願いで、ピグミーの村へ行く日。



バンギの北方面はカメルーンへ続く道で

物資輸送の車も多く通り、襲われる危険が伴う道

反対に西方面は田舎でピグミーが住む森へ向かう道なので

比較的安全らしかった。。。

が、陸軍の兵士同行でないと、やはり危険!とのことで

助手席にはライフルを足元に置き一見寡黙なルシアンが居る

「お前の陸軍用のパンツは何処で手に入れた?」と聞かれ

「日本の古着屋だよ」との答えに

「日本では軍人以外も買えるのか?」

とマジに聞いてくるから、少し困った~

「ライフルの安全装置は?かけてあるの?」と聞くと

「ノン!何時でも撃てる様に……ウソだ(笑)」とルシアン。

赤い凸凹な1本道を西へ西へと走る→

いくつかのゲートを通行許可証を提示し更に走る→

ピグミーの人々へ啓発教育を行う為、日本語も出来るジョセフ

年長のドミニクも一緒だ。


ピグミーの村の入り口にあたるバイキの町並みは

診療所のある辺りと比べても、ほんとうに長閑(のどか)で

鳥のさえずりが時たま聞こえてきて、穏やかな気持ちになる。


バイキの町を更に森の中へ入って行き

草むらの中に身を潜めてた女の子に道を聞く

「この道をまっすぐ で いい」と教えると

恥ずかしそうに又草むらの中へ入って行った。


ピグミー=衣服は纏わず裸でいるもの?は大間違いで

背丈こそ平均すると150センチ強で皆Tシャツに半パン的な

格好で迎えてくれた。顔の作りが~目がパッチリでダンゴっ鼻

シャイな気質も相まって、不思議と親近感が沸いた。


一夫一妻のピグミーの村にもAIDSの脅威は忍び寄っており

特に、貧しいピグミーの女性と他の町の男との売春行為が触媒に

なっている。

少年がボロボロのポリタンクを叩いて歌いだす

「マコンゴェーシダーェーエー」「マコンゴェーシダーェーエー」

注)マコンゴ=虫、シダ=エイズ


「エイズの虫をやっつけろ!!!」の掛け声に皆が輪になって

踊りだす! 歌と踊りの輪に段々と村人が加わり更に盛り上がる

そうやって自分たちの士気を高めるのである

それは、彼らにとって儀式的であり、大事なことのように思えた。



若い地元スタッフがコンドームの装着方法を説明し

ドミニクが質問に一問一答で進めて行く

日本ならどうだろうか?……

生命に関わるコトとして皆、真剣に聞くだろうか?……

疑問だな。。。と感じた。


ドミニクが「日本から来た歌の兄ちゃんが皆を元気づけてくれるよ~」

と紹介してくれ ピグミーの村でライブを慣行!


最初は もじもじと照れて俯いていた皆が

シンギラミンギの言葉とリズムの繰り返しに沸き立ち始め

兵士のルシアンの誘導で小さなピグミーの子供たちまで

輪になって踊りだして、森の木々の木漏れ日の下で歌った!

可笑しな話~最後の方ではギターは木の打楽器になってて

ルシアンの同僚の兵士もライフルを肩から降ろして拍手をしていた。


ピグミーの人々と足を踏み鳴らし、エイズの虫を踏みつける想像をし

ずっとずっと歌い続けた。


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藁葺き小屋の前の木に 杖をつきながら俺を見ていた

長老がニッコリ微笑んでくれて むくわれた気持ちになった

バイキの町までの道すがらジョセフがじみじみと語りかけた

『君はーきっと世界で初めてピグミーの人々と唄った歌手だね』



土埃りを舞い上げ走るジープから

ピグミーの村が小さくなって行くにつれ

俺の中で歌うことの意味が

今までになく、大きくなっていた。


⑫バイキから驚愕!の買い物へ。ケケレケマ(又明日ね)






2007/09/14(Fri) | 日記 | トラックバック(-) | コメント(0) | page top↑
中央アフリカ滞在記:「シャンテ・チンビ!」 ⑩
8月16日(木)05:40

一睡も出来なくて 

日本でいう梅雨の曇り空のような夜明けを見ていた。

なだらかな山腹に立てられたBANGUIって

サインボードさえ灰色に見える朝だ。


冷蔵庫の中のぬるいコーラをコーヒー代わりに飲む

「こちらに来て出来た曲を詰めたいので」と徳永さんに伝え

終日、宿舎に居ることにする。


日本の九州の片田舎に居てもアンテナを立てさえすれば

切り取られた情報であっても世界中のニュースは垣間見れて

何となく知った?気になれる??ところが

この場所に居ると必死で情報を得ようとしないと

入って来ない。それは逆に目を伏せないで済むコト。。。

もっとも、アルバム発売以降~少々走り過ぎた為に

心身のバランスを崩してしまってる俺には…

ソレくらいが丁度良いのかも知れないと思った。


1980年以降、、、自分に必要な物を選ぶ能力のみが

発達して、、、順列と組み合わせに頼らず生み出すという

「力」が貧弱になって来た様にも感じる自分が居て

名実伴わず、アーティストと名乗っている以上

独自の音楽を奏作し「力」が湧いてくるような作品を

届けたいが為、更に孤独と向き合い始めていることを

いつもより丁寧に髭を剃りながら 言い聞かせた。

そう。俺は自分をアジテーションしながら息を切らせてる!

ダメだダメだ これじゃ メビウスの輪だ

しかも、その輪の中には宇宙すらナイじゃないかっ

「なーんでこぎゃんあるとだろーかねーーー」


とても虚しくなり


……目を閉じてトランクスの中に手を入れ……

……自らを慰めようとした・が……  ん?



次の瞬間 あろうことかメロディが おりて 来た↑


それは、今まで聞いたこともないような

やさしく穏やかなもので すかさずギターを取り

口ずさみ始める


ラララーラーラララー ンンー ルールー

君の傷みはー僕の痛みぃー

わっ! これっ これこれっ


♪ ♪ ♪ ♪   ♪ ♪ ♪ ♪     ♪ ♪ ♪ ♪ 


3分間の無音の時の中で

無心で書き綴った


君は友達 泣かないで笑って 君は友達 泣かないで笑って

♪ ♪ ♪ ♪   ♪ ♪ ♪ ♪     ♪ ♪ ♪ ♪ 

夕方前 最終的なバンドアンサンブルの音像まで

頭の中で鳴らせるようになった頃


「具合どーすかー?」とカメラマンの丸ちゃんが部屋へやって来た


少しくぐもった声で この時点では 日本語の新曲を披露した


「なんか…やさしい曲ですね」と、丸ちゃん。



タイトルは未定の その曲のトーン以上に優しい丸ちゃんが

市場で買って来た 安い赤ワインを飲ませてくれて

短い沈黙の後 ポツリと話し始めた


「こんな時になんですけどね…」

「ん?どぎゃんかーしたと?」と 俺

「こないだ往診に行った患者さんが……今日亡くなったそうです…」

「。。。。。。。。。。。。。。。。。。。」


久明 よう聞け 人の命ってもんは 

蝋燭の焔を吹き消すようには

簡単に消えやせん!



持論めいて いつも言っていたナカばあちゃんの声が

一瞬聴こえて   掻き消された



ワインの入ったプラスチックのグラスを

トン! と置いて 俺は丸ちゃんにこう言った

「丸ちゃんっ!滞在中にバンギ語(サンゴ語)に訳して貰うけん!!!」 

丸ちゃんは黙って頷いてくれた。


全身の血がつま先から頭のてっぺんを何度も逆流した


そう! 俺は歌いに来たとだけん!



ピグミーの村へ行く⑪に続く















2007/09/10(Mon) | 日記 | トラックバック(-) | コメント(31) | page top↑
中央アフリカ滞在記:『シャンテ・チンビ!』 ⑨
8月15日(水)05:38

大袈裟ではなく、朝陽は 

山々の彼方から訪れて

それはまるで 

生きることのすべてを輝かせるほど

まぶしくて、賛美歌の様だった。


今日は 聖降祭 ↓

カテドラル(司教座のある聖堂)はコンベンションホールか

バスケットコートが余裕で3つは入る位の大きさで

神々しい祭壇や聖人の像を眺めつつ

聖歌隊のバンドのセッティングに紛れ込んで(馴馴)

エレキを弾かせて貰ったりしながら始まりを待った。


シャリーンと弾いたコードが何倍もアンビエントに響く


Asus → Asus(大) 


現地風の衣装を着た子供のダンサーが

演奏に合わせソプラノな奇声を上げ、踊り

人々はリズムを取りながら歌い

司祭はテノールで語りかけ

そして、人々は祈りの表情で頷いていた。。。


カテドラルの外に お土産でロザリオが売ってあったが

アクセサリーとして

身につけるもんじゃ ないなぁ…と何故だか思った。

俳優みたいな顔立ちの若い神父さんから飲み物を

振舞って貰った後、アラブの市場の奥の方へ進む



中央アフリカで僅か1%のイスラム教徒

アフリカ友の会の啓発教育は此処でも行われる

他の地域の人たちと比べると纏ってる

衣装のカラフルさと男女の日常の距離を見れば

一目瞭然である。


ヌルアラアヤ(生活の光)


庭の中に敷かれた絨毯の上、イスラムの女性は主に

HIVの母子感染の話しを真剣な面持ちで聞いていた

時折、抱いてる赤ん坊の寝顔を見やる

悲しそうな表情が、俺には 痛かった……。


想いだけでは どうにもナラナイことが存在することは

日本の社会の中で既に体験済みの筈だったし

泣いても、叫んでも、具体的な向き合いをしなければ

決して解決(回復或いは延命)はしない。。。


「個人と国が抱えてる問題の重さ」を知れば知るほど


アラブの市場の色とりどりさの中でさえ 

独り ぽつんと モノクロームに成っちまう


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イスラムの人々の家を後に

通りへ出ると

鮮やかなグリーンの制服を着た ガールスカウトの行進

赤いスカーフが風に揺れている

元気で居続けることは 大変なのだ

大変だけれど… 恐らくは一番大切だ!

確かな答えは 余りにも抽象的過ぎる。


薪を燃やす匂いの夕方の夕映えが

残酷なほどに綺麗で。。。。。


一体 自分に何が出来るというのか?

表層だけの理解で 世界という個人に

訴えかけるだけの 力はあるのだろうか?



アフリカを訪れて初めて 俺は俺を疑った。




夜が来て

停電の中、蝋燭の灯りで 

散文とも詩ともつかぬ文章を

書き始め

曲とは呼べないメロディを

唸っていた


闇が深ければ 深いほど

光りは あたたかく優しいに違いない!



無理やり言い聞かせようとして

途中で止めてしまった。




聖降祭の夜

自分以外の 誰かの

救いが欲しかった。



更に⑩へと続く


2007/09/07(Fri) | 日記 | トラックバック(-) | コメント(30) | page top↑
中央アフリカ滞在記:『シャンテ・チンビ!』 ⑧
8月14日(火)07:35

ザァーアーアーァー と

朝から、止みそうもない雨だ。

産婦人科の入り口の階段に座って

ぼんやり 雨の轍 をみていた…

頭の盥(たらい)にグレープフルーツや

バナナ、カボチャをのせた オバちゃんが

「要らんか~い」と雨にもマケズ、売り声をかけている。


元気が無い様に見えたのか?

パトリック(孤児だったが、20歳の今、診療所で雑務をしてる)も

「どしたの?元気? 飯喰ったか?」などと声をかけてくれる。

何気ない優しさが ちょっと嬉しくて

日本だと ほっといてくれ。。。となるが つい笑顔を返す。

「そのうち止むわよ 像の出産だわ」とレジン女史が教えてくれ

通り雨のことが 狐の嫁入りではなく 像の出産!!!(お見事)

如何にもアフリカ。 ここは中央アフリカ。


呪術師による祈祷の風習は現存しており

森の精霊の存在や マミワタと呼ばれる水の精霊にさらわれぬ様

腕に刺青を入れてる女性も居たし…。

感染と発症についても抗レトロウィルス剤を飲む以前に

祈祷師によるお払いなどが あることも事実なようである。

現地入りして今日で5日目…打ち明けてしまうと


ヒュウ~ドロドロドロ。。。。。。。。。。カタカタカタ


毎晩、大体深夜2時から4時位までの間に

トイレのドアが「バァーン」と突然開いたり

ベッドの壁際から子供の寝息や笑い声が聞こえたり

蚊帳の中に居るのに身体をツンツンと突かれたり

リビングのソファがビショビショに濡れていたり

椅子が「ギギギ」と動いたりは

殆ど毎日だった。

もっというと 現地人の自分自身とすれ違ったり

シスター・マリー・ルィーズとセネガルの山々を

空を浮遊しながら、眺めてる夢を見て金縛りに遭ったりしていた。

不思議なのは全然怖いって意識は皆無で

逆に何故だか 悪感じゃなく あたたかい心持ちで

まるで ネェ モット ウタッテ キカセテヨ!!!

って云われてる様に感じてしまうほどだった。


<<<<<  <<<<<   <<<<<<<  <<<<<<<

レジン女史(こう呼んどかないと後が怖っ=笑)の予言通り

雨は上がった! すげーわかるんだもんなぁ~


ピグミーからの伝統療法で日和見(ひよりみ)感染を防止してる

お医者さんの森の植物から精製された薬の効能に驚いたり


大学病院のドクターカヤという広島医大に研修経験のある名医から

ビンに詰めてあるフィラリアを見せて貰い 

AIDSだけじゃない現地での様々な病気の話しを聞いた。


つくづく、分厚い。現地での病気の種類と治療方法

そして、未だ未完の医療体制にギャップを感じて

仕方ないな…などと、もう言いたくない心の自分が居た。


声)俺は医者じゃなか!ばってん病気の「気」ば唄で照らさにゃん!



夕刻、パリでいうところの 0サンク地点にある

グラン・カフェというフランス風のカフェに赴いた。


徳永さん達はコーヒー(1杯づつ抽出するアレね)を注文し

俺はノドが、からっから~だったから7UPを頼んで

缶のまま飲み干した 炭酸が口の中を蹴飛ばして行く(爽っ)

心霊話しを皆にすると

「それは きっと アフリカの精霊達が喜んでるのよ!」

と、真顔で答えられ 

もしも そうであるならば 歌い手として 

そして、己が生き物として持っている 明るいDNA自体が

触れ合うアフリカの人々の魂や精霊を、少し和ませてるのなら

素直に嬉しいなぁ と思った………。

雨上がりの夕陽に照らされた舗道が


赤 というよりは 


鬼灯(ほおずき)色に染まって綺麗だった。



イスラムの人々に会う⑨へコーランを唱えるごつ、続くよ








 



2007/09/03(Mon) | 日記 | トラックバック(-) | コメント(1) | page top↑
中央アフリカ滞在記:『シャンテ・チンビ!』 ⑦
8月13日(月)05:45

今日は独立記念日! 昨日と打って変わり朝から賑やかだ。

市場を歩き挨拶 

「アンデパンダンッ」というと皆 笑顔で握手を返す。


フランス語が日常の言葉のように思われるが

サンゴ語が公用語であり『国 語』なのである

民族は、バンダ、ヤコマ、バヤ、バカ、サラ、ピグミーなど

沢山の種族が居る。


国旗の話… 赤は独立を勝ち取り国を守る国民の血、青は空と自由、白は平和と尊厳、緑は希望と誠実、黄は忍耐を象徴してるのだそうだ。


サイバーカフェと書いてある インターネットが出来る場所へ行き

久しぶりブログを更新するも~何時停電になるか?わからんので

そわそわと落ち着かない。。。

ネットの広場(この呼び方が正しいな)で

停電ボンxッ!と訪れた時に、全員の口から漏れる

「わっ あ~あ~又かよぉ・・・」に

妙な親近感と仲間感が嬉しかったりもした。

孤独は平気だが 孤立は辛い


政権交代やクーデター未遂が繰り返され

今でこそ 一応の平穏を保っているかの様だが…

内乱と略奪の爪痕は 

ドア1枚も残っていない外国人住居マンションや

塀を 3回も 高く補修している跡

塀の一番上に埋め込まれているガラスの破片や 壊された南京錠、

鋼鉄製の門扉、高圧電流を流して(た、であろう)有刺鉄線に

悲しげに 見て取れて 

そこに静かに咲く ハッとするほど美しい草花が

儚さを支えているかのようだった。

平和とは 誰かに委ねるもの? なのだろうか?

生まれた国での運命を死ぬまで背負わねばならないのか?

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午後から 職員さんの中では年長者のドミニクの案内で

ポコ川を渡り、マニョックを食べる前の状態にする迄を

見に行くことになった。

ドミニクは白い襟なしの民族服を着てとても紳士に見えた

「おぉー流石はコヤ(首長の意味)!」と俺が冷やかすと

「ぬはは~ 褒めても何も でらんぞ~坊主」とかと返す

気さくな人でなのである。

アラブの市場を抜けて 舗装と凸凹の道を行く

船着き場(丸木船を渡す場所)へ着く前に

「カメラは撮ったら いかんぞ!」とドミニクに叱られる

その証拠に、ポケットからデジカメを出し入れしてると

物凄く厳しい目で睨まれる、、、

全長5m位の木をくり抜いた船に やっとこバランスを取り

乗り込んで~向う岸まで 行く

ポコ川は川幅25m位の河川で、船頭さんは

流れを利用して一旦岸を離れ、途中で長い竿を使い

船の向きを反転させ岸へ近づく梃子(てこ)の原理のポコ川の渡し。

渡るとバコで酔った オッサンに絡まれつつ

マニョック(キャッサバ、砂糖大根のような現地の主食)の

青臭い様な甘いような香りの中、黙々を作業をする人たち

実の部分を麻袋に詰めで川の水で灰汁(あく)抜きをし

手刀で細かく砕いて、時間をかけ天日干し、粉状にする

それをお湯で溶いて半練などで 食べるのである。


既に主食が「米」とは云えない俺たち日本人

とは違い、マニョックが 常に主食なのだ。

それを1日1食!。無論腹持ちは良いらしい…のだが……うんむ

帰りは ひっくり返りそうになりながら 岸に着く(ホッ)

。。。。。。  。。。。。。。  。。。。。。。


バー(通りに面した酒を飲める場所)に立ち寄り

ドミニクが交渉してくれて 歌うことが出来た!

やっぱ 路地裏でカンパイ!は ほろ酔いの人たちに伝わり~

「よージャッキー(又しても)サンゴ語で何か演れよー」と

飲んでる誰彼にリクエストされシンギラミンギを

リズムを変えて唄った、真っ先に反応するのはご婦人と

子供たちで、皆が乗りはじめると男たちも踊り出す!


シンギラミンギ ママ シンギラミンギ ババ

シンギラミンギ オンバ シンギラミンギ コヤ!!!


ドミニクの方を見やると 嬉しそうに手を振っている。

このままだと、終わらない飲み屋ライブ(笑)になりそうだったが

正式には情報省の申請と許可が必要な為に

「また 唄いに来るバイ!独立記念日おめでとー」といい

「オーオー えーぞ えーぞー アンデパンダンッス!!!」

と今日を祝う人達に見送られ、いきなりライブを終えたのだった。



汗まみれのまま カタカタと揺れるジープに揺られ

フランス統治下の名残りの街並を ぼんやりと眺め

ウバンギ河のほとりを迂回して宿舎まで帰ることにした。



赤土の風 市場の熱気 湿気と夜気  虫の声  人々の笑顔 



こちら側はバンギ あちら側はザイール

歌を書きたいな… 静かで優しい歌を…


軽く目を閉じると

丸木船の船頭さんの渡し歌みたいなメロディが

どんぶらこ と 

ゆーっくり 浮かんで来たのだった。



⑧で精霊の洗礼を享ける?(怖かぁ~)






















2007/09/02(Sun) | 日記 | トラックバック(-) | コメント(14) | page top↑
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